ルジメント



研究室には夕焼けの西日が差し込んでいた。 コンピューター、太く細く絡まる配線、加工中の金属、実験データ表、図面、試作機、模型、壁に書き散らかされた数式、山積みの論文。 それらすべてを夕日は赤く塗っていた。 無機質なはずの彼女等の研究の集積たちは、暮れる日のせいでとても淋しく見えた。

「あんたはどうするの?」

ラクシャータは腕を組んでセシルを見下ろした。 ロイドが組んだ新世代KMFの中枢プログラムのシュミレーションしていたセシルは、困ったように笑って作業の手を止めた。

「あたしにしときな。ロイドについて行ったって、ろくなことありゃしないよ」

ラクシャータはもう何度目ともなるその言葉を口にし、セシルもまた何度目かという苦笑を浮かべた。

「ラクシャータさんはどうして私をそんなに買ってくれるんですか」

セシルは困りながらも笑っていた。

大学始まって以来の天才と並び称されるロイドとラクシャータがチームを組んで、 次々と「不可能」の壁を叩き壊して回っていたのが三年前。 研究成果に関しては文句のつけようのない二人であったが、 研究一辺倒で他を度外視する傾向が次第に周囲との軋轢を生み始めていたのもこの頃であった。 徹底的に追い詰めるか徹底的に無視するか、他人との関わりを極端な形でしか取れない(取る労力を惜しむ)二人には、 渉外役の人間が必要だった。

そんな折に入学してきたのがセシル・クルーミーだった。 ロイドやラクシャータに比べればその才能は平凡なものだが、基礎理論を完全に吸収した研究者としての土台、 的確なオペレーション、創りだすことには秀でなくとも二人の理論を理解できる柔軟で優秀な頭脳を、彼女は持っていた。 つまりセシル・クルーミーは申し分のない優秀な学生だった。
そして何よりも彼女は他人に優しく干渉することができた。 ようするに世話焼きなのである。 これはロイドとラクシャータが到底叶わない才能だった。

彼女を見つけ、彼女がいいと言いだしたのはロイドだった。
そして三年前の昼下がり。

「僕らの研究助手になってくれないかな」

友人とランチをしていたセシル・クルーミーに、何の面識もないままロイドは言った。 「僕が見つけたんだから僕が勧誘するよ」と珍しくやる気のロイドに任せてついて行くだけに留めたラクシャーターだったが、 やはり予想通りの展開だった。

経歴を見、実験講義での様子を観察し、何人かあげていた他の候補者と比べながらと、 珍しい熱心さでロイドが最後に選んだのはやはりセシル・クルーミーだった。ラクシャータも異論はなかった。
「いいパーツになりそうだあ」とご満悦だっただけありロイドは御機嫌でセシルの前に立っているが、 当のセシルは豆鉄砲を食らったようにぽかんとしていた。 無理もない。

「ごめんなさいねえランチ中に。 今日のいつでもいいから、私たちの研究室に来て貰えないかしら。お願いしたいことがあるの」

ラクシャータは手早く研究室への地図を書くと、彼女の手に押し付けてにこりと微笑んでおいた。 セシルは手の中の地図とラクシャータを見比べながら曖昧に頷く。 それを了解と受け取ったラクシャータは、彼女が何か言うより早くロイドの腕を引いて研究室へ戻たのだった。

履歴写真で顔を見知ってはいたが、実物のセシル・クルーミーはラクシャータが思っていたよりも幼い顔をしていた。 存外に、可愛らしい。そう思ったことを、ラクシャータは今でも鮮明に覚えている。


その日の夕方。 セシル・クルーミーはおっかなびっくりという様子で研究室を訪ねてきた。 束ねた教科書を両手で抱えて、部屋の主二人を見上げている。

「自己紹介がまだだったねえ。僕がロイド・アスプドン。こっちがラクシャータ・チャウラー」
「あの、セシル・クルーミーです。先輩方のお噂かねがね……」

なぜ自分が呼ばれたのかさっぱり分からないという顔をしながら、セシルは頭を下げた。 緊張しているらしい。 面識もない上級生からの呼び出しとあれば当然で、呼び出したのが 天才と変人の呼び声を一体に浴びる大学の問題児とあっては怯えるのも当然であろう。

「昼にも言ったけど、君には僕たちの研究助手をやって欲しいと思ってるんだ。 スカウトだよー、スカウト」

ロイドは端的に仕事の内容を説明する。 掻い摘まむと研究の補助と渉外担当。 降って沸いた話にセシルは戸惑いが隠せてない。 なぜ自分が、と。 しかしそんな戸惑いもロイドは一蹴する。

「君が優秀だから僕等は声を掛けたんだ。 やってくれるね?」

軽薄な表情が一転する。 熱っぽい目がセシルを射抜く。 息を飲む音がラクシャータには聞こえた。 震える声が、はいと答えていた。

「そうかー、やってくれる」

その答えに満足したロイドは取り戻した軽薄な笑みを浮かべると、

「じゃあさっそくそこの片付けしてもらえないかなー」

と山と積まれた研究資料を指差した。 セシルは今後の多難さを、助手になった瞬間から味わうこととなる。



「ロイドさんが急に来たときはびっくりしましたけどね。 今思っても唐突すぎです」

くすくすとセシルは笑う。
実際セシルはロイドとラクシャータが思った以上によく働いた。 気が利き、学習を怠らず、二人の要求によく応えた。 彼女がいなかったら早晩ロイドとラクシャータは袂を分かつていただろう。

「大変だっただろう。あたしたちのお守をするのは」

ラクシャータには一応その自覚があった。

「正直、研究の補助が楽に思えましたね」

セシルは苦笑する。 助手として働き始めた一週間でセシルは思い知る。 周囲との関係調整よりも、二人の常識外れの発想についていくことよりも、 呆れるぐらい我を引かない二人の徹底的な衝突(それはいつも高尚な技術論争から子供の大喧嘩に発展する) の仲裁の方が遥かに骨の折れる仕事であると。

「孤高の天才科学者、なんて学部生の間じゃお二人は伝説化していましたから。 まさか目玉焼きは醤油かソースかで、あそこまでの議論されるとは思いもしませんでした」

その論争は、醤油かソースかと迫られたセシルが塩コショウ派ですと答えた瞬間終わったのだが。

「そんなこともあったわねえー」

二人は顔を見合わせてくすくすと笑う。 この三年は短かったが、密度の濃い日々だった。 暮れていく日を惜しむように、三人の日々が終わりに近づくのを惜しむ。

「あんた本当にロイドについて行くのかい。こんなに熱心に口説いてるあたしを差し置いて、誘いもしなければ、 これからのことすら聞きもしないあんな奴に、本当について行くのかい?」

ラクシャータはセシルの目を見る。 セシルを口説き落としたときのロイドの真剣な目に対抗する。 ラクシャータはあの目を忘れていない。

「ロイドはあんたのこと何とも思ってないよ」

瞬間、かっとセシルの顔が赤くなる。 自分の下世話さにラクシャータは反吐を吐く。 なんと醜い感情。恥知らず。 こんな浅ましさでセシルを弄っても、彼女の心は変わりはしないというのに。 度し難い。なんと愚かなのだろうこの病は。

「それでもあいつに付いて行くのかい」

最後通牒にラクシャータはセシルに詰め寄る。セシルは驚いた顔のまま固まっている。 四六時中を共に過ごしても、例え女二人きりでも、ラクシャータとセシルは数値の話しかしてこなかった。 セシルがロイドを見つめる目に気づいたとき、ラクシャータは彼女と数値以外の話をするのを止めたのだ。
数秒の沈黙。

「ロイドさんは保護者がいないと駄目ですから」

セシルは赤い頬のまま、無遠慮に彼女を踏み荒らしたラクシャータに緩く優しくはにかんだ。
ラクシャータはセシルから目を背けた。 赤い部屋はいよいよ淋しい。 許されたくなどない。ラクシャータは強く目を瞑る。 欲しいのはそんな生易しい好意などではない。

「ラクシャータさんと三年間チームが組めたこと、私一生忘れません」

卒業を明日に控える上級生へ、後輩からの最上級の惜別の言葉。 言葉ではこぼれ落ちる気持ちは満面の笑で、セシルは余すことなく伝える。 きっと彼女は言葉通り一生、この三年を忘れないだろう。 そういう彼女だからチームへ誘ったのだ。 忘れて欲しい。忘れたい。忘れられない。忘れられたくない。 ラクシャータの心は散々となって上手く言葉を結ばない。

(いっそ憎んでくれたらね)

苦笑いをしながらラクシャータは煙管に火を入れる。 煙がいつもより苦く、夕日が目に染みて、ラクシャータはセシルの顔を真っ直ぐに見られない。

「もうこんな風に、ラクシャータさんと夕日を見ることもないんですね」

セシルはラクシャータと同じように夕日を見ていた。 研究室から見る夕日は居残りで理論と格闘した日々の象徴。 最後まで、同じものを見ることが出来ても、互いを見ることはなかった二人の印。

「あのアホに愛想尽かしたら、いつでもあたしのところに来な」

ラクシャータはセシルの頭を軽く撫でると白衣を椅子に投げ、鞄を持ち上げる。

「気張んなよ」

後ろ手でセシルにエールを送れば、見なくても浮かぶ彼女のこぼれんばかりの嬉しげな笑顔。

「ありがとうございました!」

セシルの弾ける声を背中で聞いてラクシャータはドアを閉める。 手の甲で目尻を乱暴に擦って、吸いかけの煙管に口をつける。 もし三年前、セシルを見つけたのがロイドではなくラクシャータで、 ラクシャータがセシルに真剣な目で語っていたら、何か違っていたのだろうか。

「参ったねえ……」

日の落ちた廊下は薄暗く、ラクシャータの煙管だけが赤く燃えていた。




翌日、ロイドとラクシャータは無事卒業し博士号を手にした。 同じ日セシルは大学に退学届けを提出し、ロイドとブリタニア軍技術部へ入軍した。

「馬鹿な子」

ラクシャータは最初で最後、卒業式に三人で撮った写真に呟く。 快晴の空の元、背景は慣れ親しんだ大学の中庭。 詰まらなさそうに明後日の方を見ているロイド。 気だるげに証書の入った筒を肩に乗せているラクシャータ。 そんな二人に挟まれて満面の笑みを浮かべるセシル。 彼女なしでは続かなかっただろう、三人のチーム。 最後まで、誰も本当のことを言わなかった三年間のチーム。

「馬鹿はあたしか」

ラクシャータは自嘲して写真立てを伏せ、山積みになった仕事を片付けるべく煙管に火を入れた。



※ロイド・ラクシャータ院生、セシル学部生設定。

(2008/05/15)