子守歌


「Schlafe, mein Prinzchen, schlaf' ein! Schafchen ruh'n und Vogelein.」

それは耳慣れない言葉の歌だったが、優しくロロの耳朶に触れた。

「兄さん、それ何て曲?」

ロロは夕食後の皿洗いをしながら歌を口ずさんでいる兄を珍しく思いながら聞いた。

「歌?」

しかしルルーシュはきょとんとした顔でロロを見返した。 その表情もまた珍しく間が抜けていたので、ロロは思わず笑ってしまった。 どうも無自覚で口ずさんでいたらしい。

「今兄さんが歌っていた曲だよ」

ロロはルルーシュの隣で洗い上がった食器を拭きながら、今しがたまで兄が歌っていた曲を鼻歌で真似してみせた。 聞いたことのない曲だったが、耳触りのいいメロディのお蔭でロロはすぐに口ずさむことが出来た。 すると得心いったのか、ルルーシュはロロがすべてを歌い終わるより早く照れたように笑った。

「兄さんでも照れるんだね」

ロロはからかいではなく――その証拠に妙に生真面目な顔をして、ルルーシュを見た。 いつも余裕を漂わせている兄には珍しい照れた顔は、思いの外幼かった。

「なんだ、お前忘れたのか」

ばつが悪いのか、いつもよりぞんざいに話しかけてくる兄がロロは嬉しかった。 そうしている間にも着々と洗いあがる食器に遅れを取らないように、ロロは丁寧にそれらを拭いていく。 ほんの少しの水滴でもこの兄は恐ろしいぐらいに目敏いのだ。

「小さかった頃よく母さんが歌ってくれたじゃないか」

呆れたようにルルーシュは言った。

「寝る前に、毎晩歌ってくれただろう」

覚えてないのかという問いにロロは曖昧に頷いた。 覚えなどあるはずがない。 ルルーシュの「弟」としての記憶でも、ロロ自身の記憶でも。 ルルーシュが一緒にこの歌を聞いたのは、忘れさせられた彼の最愛の「妹」なのだから。 ロロは自分の誕生部すら知らないような子供なのだからのだから。 しかしそんなロロに気づくこともなく、ルルーシュはしょうがない奴だなと笑いながら口を開いた。

「Schlafe, mein Prinzchen, schlaf' ein! Schafchen ruh'n und Vogelein.  Garten und Wiese verstummt, auch nicht ein Bienchen mehr summt,  Luna mit silbernem Schein gucket zum Feaster herein.Schlafe beim silbernen Schein,  Schlafe, mein Prinzchen, schlaf' ein, schlaf' ein, schlaf' ein!」

しっかり思い出せよと、伸びやかなアルトでルルーシュは歌う。 美しい発音、異国の言葉、知るはずのない温もり、繰り返す揺りかごのような優しい旋律。 「兄」は「母」の膝に抱かれながらこの歌を聞いて育ったのだろうか。 共に歌ったりしたのだろうか。 ロロには縁のなかった優しい記憶の結晶のような歌だった。 言葉など分からなくとも、柔らかな表情で歌う「兄」の顔を見るだけでそれが幸せな歌だということは分かる。

「ブリタニアが出来る前の国の子守歌だ」

最後の一枚を洗い終えたルルーシュはエプロンで手を拭い、ロロが拭いた食器を棚に戻していく。 ロロは ルルーシュの「妹」への愛情は、いつだってまじりっけのない誠実な愛情だった。 「妹」が幸せであるためにはどうすればいいのか、自分のことを捨て置いてでも求める慈しみの心は、 そっくりそのまま「弟」へ向けられた。 砂糖菓子のように甘い、時に過保護な程のルルーシュの愛情は、 愛情を与えられなかったロロには刺激が強すぎた。

「そうだったね。母さんの声、綺麗だったね」

ロロは知るはずのない「母」の声を語り――実際ルルーシュの美声を思えば彼の母も相当に美しい声だったのではないかと想像できる、 ルルーシュはそんなロロに嬉しげに微笑む。 家族を何より大事にする人だ。 その家族の中に自分が入れていることに、ロロは軽い酩酊感を覚える。

「なんて意味の歌詞だったかな」

ロロは甘えるように笑う。 けれど「それ」はロロのものではない。

「お前どれだけ早く寝てたんだ」

苦笑しながら、ルルーシュはロロにも分かる言葉でもう一度同じ曲を歌う。

「ねむれよい子よ 庭や牧場に 鳥もひつじも みんなねむれば 月はまどから 銀の光を そそぐ この夜 ねむれよい子よ ねむれや」

ロロは目を瞑ってその優しい波に身を委ねる。 まるでロロを寝かしつけるように、ルルーシュは密やかな優しさを滲ませてその歌を歌う。 こんな歌を歌ってくれる人はロロの周りにはいなかった。 こんな歌をロロは知らない。 ロロが知っているのは赤と悲鳴の戦場音楽だけだ。

「兄さん、もっと歌って欲しいな」

出来るだけ無邪気にロロは笑った。そう自覚しないままに彼の「弟」の振りをして、 「兄」の愛情を引き出し、盗み、その優しさをロロは貪る。 けれどロロは浅ましく愛情を横取りしていることに気づいていない。 しかしそれはある意味仕方がないことだった。 偽りの「弟」であることを忘れてしまうほど、ルルーシュが与える菓子はロロには甘かった。

ロロはルルーシュの「弟」の顔を貼り付けて笑う。 皮膚の下には何もない軽薄な笑みでも「弟」と思い込んでいるルルーシュは、その薄っぺらい笑顔の意味には気づかない。 ロロは笑い方すら知らない子供だった。

「しょうがないな」

「弟」にねだられて、ルルーシュも悪い気はしていないのだろう。 ルルーシュはまた繰り返し、美しい声でロロのために優しく歌う。 改竄されても忘れない確かな記憶が彼にはある。 それはロロには覚えのない郷愁、愛情。

(どうしてこの人が本当の「兄さん」ではないのだろう)

ロロは泣きたいような気持ちで仮初の兄の優しい歌を聴いた。




※楽曲:フリースの子守歌
※訳:堀内敬三
※MIDI:クラシックMIDI ラインムジーク

(2008/05/11)